フジロックへ行くのは富士山へ登るということではない(念のため)

f:id:takahashiarare:20180514230736j:plain

人は何かを変えたくて会社を辞めてインドへ行くのだろうか。あるいは富士山登山を試みたりするのだろうか。私は有給休暇でフジロックフェスティバル(*)へ行った。20代最後の夏、2006年のこと。

 

フジロックフェスティバル…言わずと知れた日本の音楽フェスティバルの代表格。ちなみに富士山近辺で開催したのは初回1997年のみで、1999年より新潟県苗場スキー場で開催。念のため。

 

大学浪人時代から洋楽ロックにかぶれていた私は、卒業後映画の仕事を目指したものの新卒には狭き門で、とりあえず社会人経験を積もうと最初に内定が出た会社に就職して数年経っていた。フジロックを知ったのは大学時代からの彼氏(同じく洋楽かぶれ)に2004年のWOWOW特番のビデオを借りたせい。その年はかなりの豪華メンツで、1日3時間×3日間のそのビデオを狂ったように毎晩見ていた。特集している音楽雑誌も穴が開くほど読んだ。いつか行ってみたいと思いは募るもののチケット代、宿泊代の金額が高すぎて二の足を踏むうちに月日が流れ、2年がたった。その間に彼とは色々あって別れており、タダでさえ友達も少ない私はますます人との交流が減っていた。会社では中堅クラスになって、それはいいけど仕事以外に特に何もない自分の生ぬるい状況を持て余していた時期だった。


2006年に、私が当時死ぬほど好きだったバンドがフジロックに来ることが決まった。それを知って、何がなんでも行きたい、いや行くべきだ、と突然何かに突き動かされた私は、宿泊代を浮かすためにまず御茶ノ水のアウトドアショップでテントとマットを買った。防水シートは100円ショップで。リュックと長靴と寝袋は弟に借りた。2年間行きたすぎてフジロックのサイトをなめるように隅から隅まで見ていたので、知識は蓄積されていた。

 

会社や仕事先にフジロック山の中でやるので携帯繋がらないかもと言うと、おじさま方に富士山行くの?と勘違いされ、いちいち新潟の苗場に行くと説明するのは正直面倒でもあった(堅い会社だった)。一緒に行く相手はいなかったけど、1人で東北新幹線に乗り込み苗場へ向かった。

 

フジロック(というか初フェス)、初テント泊、ソロ参加。三拍子そろったビギナーの私はおまけに人見知りで、1人でライブもロクに行ったことがない。しかし会場に向かうバスを待つ間にチラホラ見つけたソロ参加の人に勇気づけられ、思い切って話しかけ、一緒にテントを張ってフェスを案内してもらった。

 

初めての野外フェス、初めてのキャンプ、山の中を走りまわり、夜中から映画を観て、朝もやの森を歩いて帰り、またライブを見て、ビールを飲み、草むらで昼寝。

途中携帯に仕事の電話がかかって来たけど電波が悪くて聞こえない。仕方なく麓のホテルの公衆電話で硬貨を投げ込みながら話してたら1500円かかった上、大した用事ではなかった。現地でできた友達と待ち合わせするも電話が繋がらず、「誰々のライブ見に行くからそこで」の言葉を頼りに落ち合った。山の天気は変わりやすく、ジリジリと肌を焼く容赦ない日差しから一転、雨雲が立ち込めて豪雨に襲われた。雨に降られて安いポンチョは内側からじっとりと湿った。朝は日の出とともに起きてテントから山を見下ろし、考えていたのは音楽と、ビールと、何を食べるかと、天気のことだけ。そんなシンプルで夢の様な4日間を過ごして、家に帰った。

 

それからというもの私の頭の中にはずっと苗場の緑がキラキラしていた。人には「生き返ったみたいだ」と言われ、自分がそれまで死んだ様に家と職場の往復をしていたことに気づいた。あそこで見たアーティストや来てた人たちみたいに、やりたいことをやるべきだ。そう思って会社の外へ出る様になり、色々な人と知り合い、自分が好きな映画や音楽に関することをたくさんやった。やりたい事をやるのは本当に楽しく、時間がいくらあっても足りない。これをずっとやっていたいと思えた。

そして次の年の夏に再び苗場に行く少し前、新卒入社して7年勤めた会社を辞めた。決して悪い会社ではなかったしお世話になった気持ちも強かったが、映画の仕事をするチャンスがあり、その時はただ好きなことをしたいという気持ちの方が強かった。その気持ちだけで知り合いの会社にインターンとして飛び込んだ。

 

残念ながら、半年後私は業績不振で映画会社からリストラにあった。まさか半年で失業するとは想定外。人生はそうドラマのようには行かない。その後10人もいないベンチャーの広告代理店に雇ってもらい、企画書の作り方やイベントのやり方を一から習い、ありとあらゆることを勉強した。ほぼ異業種だったため初任給は低く前の会社を辞めた時の年収に戻すまで5年はかかった。お金のこと以外でも、社長とひどい喧嘩をしてクビ宣告を受けたり、何人も鬱になって辞めたり、しまいには社長も鬱になるような異様な会社だったけど、仕事は面白くて結局10年近く働いた。

 

気がつくと、自分は最初の理想とはずいぶんちがった未来を進んでいたようだ。フジロックが転機だったのは間違いない。けれども私を100%救ってくれる力はなく、本当は最初の会社にずっといた方が順風満帆だったかもしれない。でも、やはり浮き沈みがあろうが、外に飛び出して得たものの方がはるかに多かった。毎日色んなアイディアを出して、色んな場所で色んな人と出会った。どんな新しい仕事を振られても自分でどうにかできるようになり、付き合う人も世界も広がった。フジロックには毎年ずっと行ってるけど、一緒に苗場に行く友達もできて、それ以外のフェスにも、ライブにも、海外のフェスにも行くようになった。もう、周りにはフジロックと聞いてなんで富士山じゃないの?と聞く人もいなくなった。

 

会社でなく個人で働く人たちにも沢山出会い、みんな山あり谷ありで逞しく生きていた。働き方も一つではないと思うようになり、会社の枠にとらわれなくなった。会ってみたい人には会いに行けるし、行ってみたい所には行くことができる。うまく行く時もそうでない時もある。でもやりたいと思う事はやればいい。カンカン照りのときも、どしゃぶりのときもある、山の天気と同じ。

…お後がよろしいようで。